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01 January

はじめまして



はじめまして。こびとです。

このたび、自分の趣味活動のまとめとして、新規にブログを書き始めることにしました。
過去にもブログやtwitter、instagramなどで趣味のことを書き綴ってきましたが、それらをすべてまとめた形での運用を考えています。

ホームページ:Atelier Dwarf(放置)
写真サイト:放浪記(更新停止)
twitter:@dwarfwalkaround
instagram:@dwarfwalkaround

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30 December

今年一年の総括

今年の個人活動を振り返って、目標の達成度や新たな目標について記しておきたい。


今年は本当に、時勢が、とかこんな世の中ですので、なんて仄めかすだけで何を言わんとするか伝わってしまうほど(逆に明言するとそれ関連のフィルタリングを掛けられてしまうので敢えて仄めかすようになったとも)、流行り病に振り回された年だった。恐らく来年も暫くこの様子は続くことだろう。

職業柄経営の中枢にかかわるところで働いているので、働く手を止めるわけにもいかず、なかなか自宅待機とはならず出勤を続けていたが、やはりその頃は街や電車での気の使い方は、それはそれは神経の磨り減る思いだった。

旅を主軸に写真を撮ることを主とした個人活動においては、全ての計画を白紙にし、頃合いをみて「いまなら行けるか…?」と突発的に計画していた旅の予定も、結局直前になってすべて断念。
今年は結局どこにも旅に行かない年であった。


なので、今年は写真活動においてまず『旅をせずに写真を撮る』ということを考えなければならない年だった。
これがなかなか大変だった。
いつもの場所、見慣れた景色に写真を撮る価値を見出す、ということがとても大変だった。
旅先にて心が動かされたものにカメラを向けるのが主であった撮影スタイルを真っ向から引っ繰り返す行為だったわけである。
ただし、これはいい経験だったとも思っている。
目新しいものは衝動的にカメラを向けがちである。対して見慣れたものには慎重に向き合うことになる。どう撮れば作品まで持っていけるか、そのために被写体を見る角度や形をよく観察し、より魅力的に見えるように考えるようになる。
1枚を撮るのに時間をかけ、頭をつかうので正直コスパは悪い。しかし、撮ることに対しての向き合い方は以前よりも熱が入るようになったと思う。


今年も、写真展に作品を出展した。
一度は中止かと思われたが延期開催となり、一度断っていた誘いを再度受け、参加する運びとなった。
旅写真を撮らなかったので作品に選ぶ写真も近所で賄うことになり、なかなか苦労した気がする。
毎年、出展する写真については『背伸びをしない』ことを目標にしていて、無理に見栄を張ったり誇張しない、普段の写真活動以上の事はしないと決めているので、選ぶ写真のテイストはいつも通りで選んだ。
昨年は大判写真をプリントしたものを出展したが、今年は大判を持ち出すこともなく、35mmカメラで撮った作品を選んだ。
毎年何らかの成長がみられるように努力をしているつもりではあるが、今年はなかなかその点に関しては微妙だったかもしれないと反省をしている。自分のテイストが固まってきた、といえば聞こえはいいかもしれないが。


昨年末か、今年の頭頃に、ポートレートでのライティングの講習を受けた。
こればかりは本ではどうにもわからないと思い、お金を払って学びに行った。
そのあたりから、ストロボを使うようになったし、人物を積極的に撮るようになった。
これらに関しては、まだ手応えがない状況だ。
やりたいことに対して圧倒的に技術面が追い付いていないのを実感している。
というのも、受けに行った講習はデジタル一眼での撮影を念頭に置いたもの(今の時代当然だが)、その撮り方がデジタルならではの手法だったので、それをフィルム撮影にどう置き換えるかの模索が続いている。
結局は数をこなして経験を積むしかないと思っていて、そのために機材を揃えたり、何枚も何枚も撮って、結果を分析する日々だ。
今の間だけでもデジタル一眼を使って練習をした方が圧倒的に効率がいいのは重々承知である。しかしそれでは面白くないのである。
成功写真を撮りたいなら今すぐにでもデジタル一眼を買いに行くべきだと思う。しかし、失敗も含めた試行錯誤の過程を楽しむのであれば、フィルムで撮り続けるべきだと思っている。
効率と嗜好とのせめぎ合いである。

風景を撮る機会がなくなった代わりに、人物を撮る機会は増えた。
というか、先述の通りライティングを用いた撮影がなかなかうまくいかないので、悔しくてあれこれ試す為に何度も撮っている、といったところだ。
頼んだらいつでも撮らせてくれる都合のいいモデルがいれば助かるのだが、なかなかそんな人はいないので、大抵は友人に頼んで相手をしてもらっている。モデル料の代わりに奇跡的にどうにかうまくいった写真を数枚差し上げて、それで勘弁してもらっている。
モデルの前で不安気に撮るのはアレなので撮影中はなるべく隠しつつ、しかしやはり自分の腕に疑問を抱きながら暗中模索をしている。


写真関連で言えば、最近不要なレンズやカメラをいくらか処分した。
捨てることは憚られるので、ほとんど捨て値でオークションに出品し、物好きな人に引き取ってもらった。
おかげでカメラやレンズを仕舞っているスペースに空きができて、整理がつくようになった。
レンズの違いで描写の味を楽しみたいとの意図から買い集めたレンズだったが、ふと思い立って同一条件での撮り比べをしてみた結果、思った以上に残念さが浮き彫りになったレンズがいくつかあり、手放すことになった。ほかにも年単位で使っていないものや、なにかを買ったらオマケでついてきて全く使っていなかったレンズなども同様に手放した。

50年や60年前のカメラをメインに使う事が多いので、使える機材も限られてくる。その中で、実用性を考えてモノを選んでいると、どうしても趣味性とぶつかる要素が生まれてしまうのがこの頃の悩みである。
具体的に言えば、純正の単焦点レンズを使いたいという趣味性に対し、画角別に2本も3本もレンズを持ち歩くのは場所をとるし機動力が悪いのでサードパーティー製のズームレンズを使った方が実用的、といった問題である。
事実、今年一番よく使ったレンズはtamronとtokinaのズームレンズばかりである。
純正の単焦点は本当に使わなかった。
何故なら、純正単焦点よりもtamronやtokinaのズームレンズの方が年代が新しいので、シンプルに描写がいいから。これはもう仕方がない。どうせ撮るなら写りがいい方がいいに決まっている。
単焦点も、描写に惚れ込んで手にしたものばかりだ。だから使いたい気持ちはある。しかし、20年も30年も進化した技術力の差には、描写の”個性”など無力だ。
元々、フィルム写真を撮るにあたって、古めかしい写真を撮りたいという意欲はない。オールドレンズを呼ばれるものを使っていても、それをオールドだとは思ったことは一度もない。すべてフィルム写真を撮る上での実用上の道具である。であるならば、よりよい描写をする道具を選んだ方が気持ちがいいのは言うまでもない。
そんなわけで、アダプタを介せばどのボディでも使えるサードパーティー製のレンズをわざわざ50年も60年も経ったボディに取り付けて、一体これになんの意味があるのだとジレンマを抱えながら写真を撮っている。使わない単焦点を片付ければもっとスマートになるとわかっていながら、手放せないのはそこに超えてはならない一線があるからか。
その一線を越えた時、きっと僕は写真に対してもっとシンプルに向き合えるようになると思う。


直近の話になるが、部屋を片付けた。
年末の大掃除、というつもりではなかったが、色々考えているうちにタイミング的にそうともとれる時期にずれ込んでしまった。
清掃は嫌いではないが、物の整頓はあまり得意ではない。
掃除と呼ばれる行為には、清掃と整頓の2つの要素を含んでいて、掃除が苦手という人間には実は清掃が苦手という人と整頓が苦手という人、その両方が苦手という人がいると考える。
自分の場合はというと、整頓が苦手な人間である。
掃除がなかなか進まないのは、整頓の際に物のレイアウトを考えることに脳が疲弊することが原因ではないかと考えた。あまり賢くないので、ここに考えがたどり着くまでに時間が掛かった。
では、楽に整頓を終わらせるにはどうすればいいかというと、考えなけれればいいわけである。
物をひとつひとつどこに置くという事を考えなくても見栄え良く整頓できればいいわけで、つまり、物のおおまかな収納位置だけ決めて、あとは所定の位置にぶち込めば終わるように部屋を変えればいいのだという事で結論がついた。
そんなわけで、カラーボックスとインナーボックスとコンテナを買ってきて、部屋中の収納場所に箱を配置した。
アウトドア道具はこの箱、工作用具はこの箱といった具合に用途やカテゴリだけざっくりと決めて、その中にぶち込んでしまえば、あっという間に部屋が片付いた。
箱を開けばまあまあごちゃついてはいるが、なにが入っているかは把握できるし、箱を並べているガワだけみれば片付いて見えるので、お手軽に整頓された気持ちよさを味わえる。
整頓にかけるコストを最小限に抑えれば、それを維持するコストも最小限に済むというわけである。



ここまでは、今年のついて振り返った。
ここからは、来年度に向けての目標などを話したい。
文字に起こして残すことで、達成せねばと自分に圧をかける意図もある。

写真に関して言えば、撮った数の割にきちんと撮れた写真が少なかったと思う。これを改善したい。
具体的に言えば、露出の不正確さが目立った。露光不足を無理矢理押し切って現像でどうにかしようとしたり、どうにかならずに素抜けになったフィルムが多くあったように思う。
きちんと基本に立ち返り、適切な露出で撮った適切な濃度のネガでプリントする。これがなによりも大切だと思う。来年はこれを意識したい。

もう一つは、使おうと思って使わなかった機材が多いこと。
今年一度も使わなかったレンズやカメラがあるのは気になった。
撮りに行く場所や状況によって頻度に差が出るのは仕方がない。であれば、それぞれをきちんと使える状況を作るべきであったと思っている。
特に今年は、4x5の大判カメラを使わなかった。これは良くなかったと思っている。
勿論、持ち出すのに労力がかかるのは仕方がないことだし、そこまで労力をかけて撮りたいものがなかったのもある。だが、大判カメラを作品撮りの特別なカメラという意識で扱いすぎたせいもあると思っている。もっと気軽に持ち出して使うべきだった。
そして、現像やプリントの環境がきちんと整っていないが故に、4x5で撮ってもプリントできないから撮ってもしょうがない、という気持ちがあった。これを来年はどうにかしたい。
自家暗室ではプリントできないサイズのフィルムなので、プリントするにはレンタルラボに行く必要がある。時間も限られるしコストもかかる。
大判カメラを改造した引き伸ばし機の制作も頓挫してしまっていて、大判写真に関しては何もかもが中途半端なままである。是非、前向きに動かしていきたいと思っている。


旅に関しては、世の中の状況が読めない中でなんとも言うことができない。
体力づくりという面で、一応自転車に乗るようにはしているが、頻度は減っている。これは改善したい。面倒くさがらずにしっかりと体を動かさないと、年齢的にも普段の運動量的にも、体力を維持することが難しいのは明らかである。
道具やスキル面では、正直必要なレベルには達していてこれ以上望むものはあまりない。
所謂キャンパーではないので、道具は必要最低限でいいので増やすものがない。スキル面においても効率を考慮して必要なスキルは身に着けてあるので、特にこれといって不足は感じていない。
あとは、また旅に出られるように世の中が落ち着くのを待つだけである。



自分を掘り下げることにしか関心がない故、対外的な理想や目標が欠如してるのは許していただきたい。
来年も、今年やったことを超えられるように精進する所存。
どうか、よろしくお願いいたします。

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16 May

”考える”ことを楽しむ。なぜ写真を撮るのか。

いま世の中では、外出の自粛や施設の利用制限で、今までできていたことができなくなったり、手に入っていたものが手に入りにくくなっています。
そういった中で、べつのものを代用する工夫やアイデアが生み出されたり、それをシェアする世の中の流れが生まれ始めています。
また、それが時に意表を突いた発想の転換だったり、思わず笑ってしまうようなジョークだったりと、工夫やアイデアをエンターテインメントとして楽しむ風潮も生まれています。


”考える”という行為は、自分の中にあるものを材料にして新たなものを生み出す行為です。
なので、生み出されるものは自分が持っている以上のものにはなり得ません。
より良いものを生み出すためには、より良い材料を持っていなければいけないわけで、つまりは日頃からいろいろなものを見て、経験して、自分の中に蓄積していくことが大切なわけです。

僕は小学生の頃から、大人に混じって自治体行事の講師や演者として人前に立つという経験をしてきました。
提案された企画に対して、対象や規模を考慮して内容を決定し、準備をして本番に臨む。結果を振り返って改善点を洗い出し、次回がよりよいものになるように改善をする。
これを、あらゆる立場や役割の人間の中に混じって行うわけで、それはそれは頭の使う行為です。
自分が生きる社会が『学校』と『家庭』という局所的な範囲になりがちな期間に、それ以外の場所で”仕事”として人と関わり、自分の為すべきことをするという経験ができたのは、とても貴重なことだったと思います。



僕が後輩になにかものを教えるときには、よく”考えろ”と言います。
仮説を立てて、必要な知識や技術を集め、実行に移し、結果と予想を比較し、次の仮説を立てる。
この繰り返しが、物事を成すためになによりも大切な行為だと思っています。
なので、僕は意見や答えを求められてもあまり直接的な返答はしません。判断材料になるような断片的なことをぽろぽろと語ったり、答えに行きつくための道の辿り方の話をします。

また、色々な物事に触れろ、ともよく言います。
自分の中の考える材料を増やすために、勉強でも運動でも芸術でもなんでもいいから、今一番向き合いたいと思っていることがあるなら、それ以外の事にたくさん目を向けろと言っています。
なにかひとつのものに集中してしまって、それ以外の事が見えないことほど恐ろしいものはないと、僕は思います。



写真を撮る、という行為も”考える”の連続です。

僕は、巷によくある『写真の教科書』のような本を好みません。
あれは「評価されるための効率的な写真の撮り方」を説いたものであって、「自分が表現したいものを如何にして表現するか」を説いたものではないということがわかってから、持っていたそれらの本はすべて捨てました。

自分が表現したいと思ったものを思った通りに表現する、というのは、言葉の上では簡単でも、実際に形にするのはとても難しいことです。
だからこそ、考えるしかないのだと思います。
僕は、シャッターを切っている時間よりも、写真のことを考えている時間の方が長いです。
イメージを形にするために、どう撮るか。フィルムは、現像は、レンズは、ストロボは。そういったことを考えている方が、実際に撮っているよりも圧倒的に長いです。
そして、大抵の場合、思ったような結果にはなりません。
僕はフィルムでしか写真を撮らないので、シャッターを切ってからその結果がわかるまでにはとても時間が掛かります。
そして、その間には様々な変動要素が加わっています。
撮り方が悪かったのか。現像が悪かったのか。プリントが悪かったのか。あらゆる可能性を考えて、次の撮影を考えます。

僕は、この行為がとても楽しいと思っています。
イメージ通りにならない。表現したいことが表現できない。悔しい。もどかしい。それが、面白い。
思い通りに写真ができたときは勿論嬉しいですが、うまくいかないときはそれとは別の面白さがあります。

最早、写真が好きなのか。”考える”ための口実として写真をしているのか。

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