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28 April

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16 May

”考える”ことを楽しむ。なぜ写真を撮るのか。

いま世の中では、外出の自粛や施設の利用制限で、今までできていたことができなくなったり、手に入っていたものが手に入りにくくなっています。
そういった中で、べつのものを代用する工夫やアイデアが生み出されたり、それをシェアする世の中の流れが生まれ始めています。
また、それが時に意表を突いた発想の転換だったり、思わず笑ってしまうようなジョークだったりと、工夫やアイデアをエンターテインメントとして楽しむ風潮も生まれています。


”考える”という行為は、自分の中にあるものを材料にして新たなものを生み出す行為です。
なので、生み出されるものは自分が持っている以上のものにはなり得ません。
より良いものを生み出すためには、より良い材料を持っていなければいけないわけで、つまりは日頃からいろいろなものを見て、経験して、自分の中に蓄積していくことが大切なわけです。

僕は小学生の頃から、大人に混じって自治体行事の講師や演者として人前に立つという経験をしてきました。
提案された企画に対して、対象や規模を考慮して内容を決定し、準備をして本番に臨む。結果を振り返って改善点を洗い出し、次回がよりよいものになるように改善をする。
これを、あらゆる立場や役割の人間の中に混じって行うわけで、それはそれは頭の使う行為です。
自分が生きる社会が『学校』と『家庭』という局所的な範囲になりがちな期間に、それ以外の場所で”仕事”として人と関わり、自分の為すべきことをするという経験ができたのは、とても貴重なことだったと思います。



僕が後輩になにかものを教えるときには、よく”考えろ”と言います。
仮説を立てて、必要な知識や技術を集め、実行に移し、結果と予想を比較し、次の仮説を立てる。
この繰り返しが、物事を成すためになによりも大切な行為だと思っています。
なので、僕は意見や答えを求められてもあまり直接的な返答はしません。判断材料になるような断片的なことをぽろぽろと語ったり、答えに行きつくための道の辿り方の話をします。

また、色々な物事に触れろ、ともよく言います。
自分の中の考える材料を増やすために、勉強でも運動でも芸術でもなんでもいいから、今一番向き合いたいと思っていることがあるなら、それ以外の事にたくさん目を向けろと言っています。
なにかひとつのものに集中してしまって、それ以外の事が見えないことほど恐ろしいものはないと、僕は思います。



写真を撮る、という行為も”考える”の連続です。

僕は、巷によくある『写真の教科書』のような本を好みません。
あれは「評価されるための効率的な写真の撮り方」を説いたものであって、「自分が表現したいものを如何にして表現するか」を説いたものではないということがわかってから、持っていたそれらの本はすべて捨てました。

自分が表現したいと思ったものを思った通りに表現する、というのは、言葉の上では簡単でも、実際に形にするのはとても難しいことです。
だからこそ、考えるしかないのだと思います。
僕は、シャッターを切っている時間よりも、写真のことを考えている時間の方が長いです。
イメージを形にするために、どう撮るか。フィルムは、現像は、レンズは、ストロボは。そういったことを考えている方が、実際に撮っているよりも圧倒的に長いです。
そして、大抵の場合、思ったような結果にはなりません。
僕はフィルムでしか写真を撮らないので、シャッターを切ってからその結果がわかるまでにはとても時間が掛かります。
そして、その間には様々な変動要素が加わっています。
撮り方が悪かったのか。現像が悪かったのか。プリントが悪かったのか。あらゆる可能性を考えて、次の撮影を考えます。

僕は、この行為がとても楽しいと思っています。
イメージ通りにならない。表現したいことが表現できない。悔しい。もどかしい。それが、面白い。
思い通りに写真ができたときは勿論嬉しいですが、うまくいかないときはそれとは別の面白さがあります。

最早、写真が好きなのか。”考える”ための口実として写真をしているのか。

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