13 March 障害者としてどう生きるべきか 僕は障害者です。 僕が”こびと”と自称しているのは障害が原因の体格を自分の特徴と捉えているのが元々の由来です。 僕は自分の障害のことを、実はよく知りません。 先天性、つまり生まれる前に持った病気が原因ですが、僕が知っているのは病名と、同じ病気の人はそう多くないということくらいです。 具体的な症例も、今まで生きてきて自分の身で体験したことしか知りません。ほかの患者に会ったこともありません。 日常的に治療が必要な病気ではありませんし、日々元気に過ごしていますが、僕の病気が健常者と同じように年をとって生き、死んで行ける病気なのかも、今の僕にはわかりません。 障害を持って生きるということは、この世の中、少なくともこの日本社会においては、正直とても大変なことだと思います。 ひとの人生に『障害者』という肩書きがつくのは、とてもおおきなハンディです。 僕は身体面でひとより劣る部分が多くあるため、どうしてもできないことがあります。 また、僕が”生まれつきの規格外”故に不便なこともたくさんあります。 身体面で劣るから力仕事はさせられない、見た目を気にする人がいるから人前にでる仕事は振れない、健常者より配慮が必要だから同等の待遇にはできない。 こう言われて仕事に就くのも一苦労でした。 健常者の世界で健常者と同じように生きていくのは難しくて、「配慮」や「譲歩」をいただいてこの世界に住まわせていただいている”社会的弱者”、それが僕の立場です。 「みんなが手を取り合って生きる幸せな社会」なんて行政だかメディアだかが掲げるものはただの理想で机上の空論で、実際の世の中はそんなに優しくも温かくもなくて、外を歩けば僕の背格好を珍しがって頭からつま先まで眺められたり、あるいは指差されたり。 休日に買い物にでも出た日には「ママみて、あのひとちっちゃい」と子供に見世物にされる。 障害者として生きるというのは、結構大変です。 普通の精神で、普通の物事の感覚を保ったまま生きることは僕にはできなくて、いくらか感覚を捻じ曲げないと、とてもじゃないけど今の今まで正常な精神では生きられなかったんじゃないかと、これまでの人生を振り返るとそう思います。 だから僕にはいくらか、あって当たり前の感覚が欠落しているかもしれないし、あるいは飛躍しているかもしれません。 それは、生きるために必要だった自衛策で、”通らざるを得ない誤った道”だったのだと思います。 では、障害なんて持って生まれなければよかったかと言えば、そうは思いません。 普通に生まれていればしなくてよかっただろう苦労を沢山経験して、沢山悩んで、沢山泣いてきた僕の生き方は、決して人に勧められる生き方ではありません。でも、今更障害のない人生は想像できません。 ある日突然障害を負ったならともかく、生まれた時から障害と一緒だった僕には、健常者の気持ちがわかりません。きっと周りの人も、僕の考えや気持ちを察することはできても、本当に理解することはできないと思います。 それでいいのだとおもいます。 大切なのは、それが良いとか悪いとか判別することではなくて、色々あること認めることだと思います。 世の中には理解できないものが沢山あって、それでいて全てを理解する必要もない。 そういうものなのだとやんわり受け止め、流して生きるのが、きっとこの世の中での生き方なのではないかと、最近はそう感じています。 僕はいかんせん見た目が目立つので、おかげでひとに覚えてもらいやすいという利点があります。 僕は僕自身の存在が名刺になります。だから僕は自ら”こびと”を名乗ることにしました。 これからも僕は障害によって苦労し、悩み、泣いて生きていくことと思います。 これは僕に課せられた生き方の宿命です。 その生き方の中で僕ができることは、障害者である僕が自らの障害と付き合ってどう生きているかを、名刺と共に世に発信することだと思いました。 そういう生き方をしている者がいることを知ってもらうために、このブログはそのために始めました。 趣味や考え、生き方を通して”こびと”という存在を知らしめることが、僕の生きることの意義だと、最近はそう思っています。 PR